the edge of love another
『you』
帰り際に室長に呼び止められた所為で、そこへついたのは約束よりも30分以上遅れた時間だった。
ごく普通の、と言うとかなり語弊があるが、人が住むには十分過ぎるほどの広さと機能を兼ね備えた部屋の扉に手のひらを当てる。静脈で認識すると言う最新のセキュリティーでロックされた鍵があき、私はそのドアから中へと入った。
広いエントランスからリビングへと続く廊下は、何処か本家の広縁を思い起こさせる。
靴を脱ぎ、靴下のまま廊下を最奥のリビングへと向かいながら、私は16になった息子のことを思った。
「遅かったな、融(ゆう)」
食事はきちんと取っただろうか。朝、声が掠れていたが風邪でなければ良いのだが。
そんな事を考えながらリビングの扉を開けると、中にある大きなソファから声が掛かった。
「すみません、遅くなりました」
鞄を壁際に置き、ソファの前へ向かう。足を組み、グラスを傾けているその人の前に立つ。
「約束は、何時だった?」
「七時です」
「社からここまで、30分と掛からない筈だが。今が七時四十分なのは、俺の時計が進んでいる所為か?」
「いいえ」
この人に言い訳など通用しない事を、私は22年の付き合いを通して学んでいる。
「融、服を脱げ」
ソファの上から皮の鈍い艶を放つ手袋を取りながら、その人は私へと命じる。皺になる、と何処か冷静な部分で考えながら上着を脱ぎ、ネクタイを外す。ベルトを取り、スラックスの前立てを降ろす私を、その人はじっと見つめていた。
「まったく、いつ見てもいやらしい下着だな」
「はい」
この人から与えられた下着のどれもが、いっそ付けない方がマシだろうと言えるほどにいやらしい形のものばかりだった。今はいているほとんど紐のようなそれも、陰茎と陰嚢をようやく隠せるほどでしかない。
シャツを脱ぎ捨て彼から与えられた下着だけになると、私は床へ膝を付き背を丸め、ソファへ尻を突き出す形をとる。
「……約束を守れずに、遅刻した私を罰してください。兄さん」
ソファから、手袋をはめたらしいキュッと言う小さな音が聞こえる。おそらく、下着からは私のものがはみ出し、浅ましい欲望を彼へと素直に伝えているに違いない。
「まったく、いつになったら俺の言付けを守れるようになるのかね、融は」
パンっと乾いた音が部屋に散る。尻から脳へと、痛みと疼きが同時に走る。息をつく間もなく、二度、三度と音が鳴り、その度に私は内腿を引き攣らせる。
「あ、ああ、ごめんなさい、兄さん」
何度も打たれ、痛みより熱さを感じる頃、彼の手が止まる。そして、赤くなっているだろう私の尻を、革の手袋の指先がすっと撫でた。その指先に、びくびくと快楽を感じて体が震える。丸めていた背が支えられなくなり、ぺたりと胸が床へ這う。
尻だけを突き出したいやらしい格好を笑うように、彼の息が尻に触れる。それすらも悦楽となって感じてしまう。
「お仕置すら、まともに受けれないのか?」
「ごめんなさい、兄さん」
髪が掴まれ、頭を後ろへと引かれる。見上げた彼の顔には、いつものように皮肉な笑みが浮かんでいた。
「もっとも、いくらお前のケツを叩いたところで、喜んでチンポおっ勃てるだけだからな。立て」
頭を掴まれたまま、言われるままに立ちあがる。下着からはみ出た陰茎が固く昂ぶっている。
「はい。私は、尻を打たれて悦ぶ……兄さんのマゾ奴隷です」
隠しもせずに彼を見たままそう答えると、満足したように彼は私の髪を離した。そして、どさりとソファへと腰を下ろす。
「お仕置はお仕置だ。後で遅れた分、鞭で打ってやる。嬉しいか?」
「はい」
足を広げ、背を持たれた彼のその足の間に座り込む。見上げたまま、私は彼の命令を待つ。
「その前にしゃぶれ。あまりにお前が可愛い声で啼くから、おさまりが付かない」
「はい」
お許しに、私は彼のベルトへと指を伸ばす。ファスナーを降ろし、歓喜に震える指で下着から、彼の陰茎を取り出す。固くなりつつあるそれへ唇を寄せてキスをする。そして、ゆっくりと口の中へとそれを納めた。
舌で味わい、喉の奥で感じる。
その全てが彼から教えられた事だった。
「美味いか? そんなに」
冷ややかに笑う上からの声とは正反対に、私の中でそれは固さと大きさを増していく。
いっそう強く感じる兄さんの匂いに、私は零れる涙もそのままにひたすらそれを味わった。
室長が私を呼び止めて与えた些細な事務処理は、この人からの伝言によるものだった。
その頃の私にとって、本家はすなわち啓一(けいいち)兄さんだった。
兄さんと言っても、実の兄では無い。親戚のうち同世代の年上は兄さん、姉さんと呼んでいた。
もっとも親戚といっても本家の啓一兄さんと私との血の繋がりなど、ひどく遠いものだ。
それでも盆と正月本家に親戚が集まった時、四つ年上の啓一兄さんは一番私を可愛がってくれた。誰にも内緒だと言ってお菓子や玩具をくれる事も度々だった。
だから父に呼ばれて今日から本家で暮らすようにといわれても、一抹の寂しさとそれを上回る喜びでしかなかった。本家で上手くやっていけるかなどと言う不安は、まったくなかった。
中学に入って最初の夏休みの初日に、私は父に連れられて本家の門を潜った。正月や盆の時と同じく、南の広縁を通り、座敷へと向かう。座敷では本家のお父さん――つまり、啓一兄さんの父親で本家の総領が待っていた。
いつものように挨拶をし、その後父と一緒に本家の仏壇に持参した包みを備えて手を合わせる。いつもならその後すぐ兄さんの部屋へと遊びに行って良いという許可が下りるのだが、その日は違った。
父と一緒に本家のお父さんの前へ座らされる。父が、座卓の上に白い紙を置いた。
「この成績なら、大丈夫だろう」
「よろしくお願いします」
紙は、私の成績表だった。
本家のお父さんと父のやりとりを聞いて、私はようやく不安を覚えた。居た堪れないような、父を問いただしたいようなそんな居心地の悪さに視線が落ち付きなく揺れた。足が痺れかけていた所為かも知れない。
そのタイミングを見計らったように、奥へとつながる襖がすっと開けられ、啓一兄さんが顔を覗かせた。
「父さん、話が終わったなら融を部屋に案内したいんだけど」
おいで、と兄さんが手招きをする。話が終わったのか、まだ途中なのか判断の付かない私は最初に父を見上げ、それから本家のお父さんを見つめた。
「まったく、しょうがないな啓一には。融、啓一に部屋に案内してもらいなさい」
本家のお父さんの許可に、私は痺れかけた足をなんとか立たせて兄さんの元へと動いた。
「では、私はこれで。融の荷物は後で」
「司も、今日は泊まっていったら良いだろう」
襖を閉める直前に聞こえたその会話に家族から離れる寂しさが薄れ、掴まれた兄さんの手のひらの熱さに不安も消えた。
「啓一は俺と一緒の部屋で良いよな?」
兄さんに腕を引かれて階段を上がる。小さな子供みたいで照れくさかったが振り払うのも大人気ないような気がして、私は兄さんのするがままで二階へと上がった。
二階の最奥、八畳二部屋が兄さんの部屋だった。ベッドと机の置かれた部屋とテレビやオーディオの置かれた部屋とからなる子供部屋としては当時あまりにも贅沢なその部屋に、私は密かに憧れを抱いていた。
「これが融のタンス。下着と着替えの服はいくつか買ってあるけど、後で荷物が届いたらここに仕舞うといい。それから、これが融の机。二学期から使う教科書は準備してある」
兄さんの部屋には、私のものだという幾つかの備品が増えていた。
「教科書?」
「そう。俺の通ってた付属中学に編入するって、聞いてなかった?」
「知らなかった……」
兄さんに言われて、ようやく私は本家で暮らすという意味を理解した。夏休みの間だけではなく、ずっとここで暮らすとなったら確かに今通う中学は遠すぎる。家から本家までは電車で一時間ほどなので、通うつもりになれば、通えるのだろうが。
「まあ、いいや。明日一緒に融の家へ荷物を取りに行こう」
ようやく理解できた事柄に妙に納得をしている私を見て、兄さんは不安を感じていると思ったのだろう。私の背を叩いて、明るくそういった。
「晩飯まで、ゲームでもしようか? 新しいソフトを買ったんだ」
当時爆発的に広まりつつあるテレビゲームを、私は持っていなかった。兄さんの部屋に憧れていた一つがゲーム機があるということもあって、私は兄さんに誘われるまま隣のテレビのある部屋と移りゲームを楽しんだ。
父や本家のお父さん、本家のお母さん達と夕食を取り、家よりもずっと広い風呂で汗を流した後、また兄さんとゲームを楽しんだ。二人でテレビに向かって一喜一憂する様は、傍から見るとおかしなものだったらしい。長く本家にいるお手伝いさんが、兄弟のようだといって笑いながら私の布団を敷いてくれた。
明日もあるのだからという兄さんの言葉に従って布団へもぐり込んだのは、10時を過ぎた頃だった。
興奮の所為かなかなか寝付けずにいた私は、ずっと布団の中から兄さんの部屋を眺めていた。電気を消され暗くなった見知らぬ初めて泊まる部屋が余所余所しく、天井の正目模様が見ているうちに歪んで渦を巻くのではないかという訳のわからない不安を感じさせた。
私の寝る布団のすぐ隣には兄さんの寝ているベッドがあるのだが、それがまた兄さんが寝返りをうつたびに微かに軋んで音を立てる。その音にびくっと体を震わせ、兄さんの部屋に変わりはないかと全神経を研ぎ澄ませる。そしてまたベッドが軋んで、私の心臓は跳ねあがる。
「兄さん……もう、寝た?」
それを何度繰り返したのか、とうとう私の不安は頂点に達し、堪らずにベッドで眠る兄さんへと声を掛けた。しばらくしてベッドが軋み、マットレスの上から私を覗き込む兄さんの顔が見えた時には泣きそうだった。
「どうした、融? 眠れないのか?」
兄さんの問いかけにこの不安をどう伝えたら良いのか、私はひどく悩んだ。子供のようにお化けが恐い訳ではなく、かといって両親が恋しい訳でもない。何か起こるかもしれないという漠然とした不安を伝えるのは、難しかった。
黙った私をどう思ったのか、それとも私の不安を汲んでくれたのか。兄さんは小さく笑うと、おいでと再び声をかけてきた。不安に押し潰されそうになっていた私は、その言葉に救いを求めて兄さんのベッドへと潜り込んだ。
「融のママには、明日会えるし。それにいつだって融の家に帰って泊まってきても良いんだよ」
幸い私は小柄だったが、兄さんは大柄な方だった。二人で寝るには少し窮屈だったろうに、兄さんはその事には触れずに、私の上へ薄手の毛布を掛けた。
「違う。……ちょっと恐かっただけ」
「お化けか? 融はまだお化けとか幽霊とか信じてるんだ」
兄さんが私を抱き寄せ、背を撫でる。しがみつくようにして胸へと顔を押し付けると、兄さんの匂いがした。
「違う。信じて」
「大丈夫。お化けや幽霊が出ても、俺がやっつけてやるから。融は安心して寝な」
やりとりをしている間も、兄さんはずっと私の背を撫で続けた。兄さんの匂いとその腕の暖かさに安心しながら、私は目を閉じた。兄さんの腕の中にいるなら、例え天井の正目が渦を巻こうとこの部屋が何か変わったとしても、恐れることはないだろうとそう思った。
くすくすと笑う兄さんとやりとりをしながら、私は徐々に微睡んでいった。
本家で暮らす本当の意味を、その時私だけが知らなかった。
2004.06.09
気分転換をかねて。